【コラム】シカゴ・ヒップホップ・シーンを考える

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【コラム】シカゴ・ヒップホップ・シーンを考える

【コラム】シカゴ・ヒップホップ・シーンを考える

南部から北部へ~グレート・マイグレーションがもたらしたモノ~

私はいま神戸のCDショップでスタッフとして働いており、何か面白い音源はないだろうかと探すのが日課となっている。その中でシカゴがシラクと呼ばれていることを発見した。シラクとは、毎日誰かが銃による犯罪で命を落としている同地を戦争中のイラクと変わらぬほど危険な街という意味でシカゴ+イラク=シラクということだ。そんなシカゴの状況を変えたいという思いは、シカゴの黒人居住区チャタムで育った一人のラッパーも同じだったようだ。彼の名は、チャンセラー・ベネット。チャンス・ザ・ラッパーとしてヒップホップ・シーンに留まらずマドンナやスクリレックスとコラボするなど、いま1stアルバムが待たれている大注目の新人だ。彼は父親が始めたソーシャル・メディア・キャンペーン“Memorial Day Weekend”という通称“#savechicago”と呼ばれる木曜日から土曜日の夜までの42時間銃による犯罪をゼロにするという活動に力を貸した。それが称えられ2014年11月9日、シカゴ市長ラーム・エマニュエルからその年のイリノイ州で最も社会貢献を果たした若者に贈られる「Outstanding Youth Of The Year」を受賞した。このニュースは音楽の持つ力と文化を考えさせるきっかけを作ってくれた。そこから私はシカゴの街とこの街が育んできた音楽の関係を黒人文化の歴史という視点から紐解いてみたくなった。なので『シカゴ・ヒップホップ・シーンを考える』と題したこの連載コラムを使い、仕事の合間をぬって日々調べているヒップホップの特にシカゴについての発表の場としたい。その第一段階として、まず南部で生まれたルーツ・ミュージック(ブルースはミシシッピ、ジャズはニュー・オリンズ、カントリーはアパラチア山地)が、どのように北部へ伝わっていったのか。特にシカゴへどう伝わったのかを紐解いてみたい。

「駐車場を見つけるよりも銃を見つける方が簡単だ」という歌詞が歌われている。

なぜルーツ・ミュージックは南部から生まれたのだろうか。それは、産業構造の違いによる所が大きい。北は工場などの第二次産業、南は綿花畑などの第一次産業だった。黒人奴隷は主にこの南部の労働力であり、地主の資産であったため無賃金労働であった。ざっくり言ってしまえば南北戦争(1861-65年)の発端もここにある。南北戦争が終わり、奴隷解放宣言が出された。しかし、南部の白人地主の力は強大であり“分離すれども平等”のもと通称ジム・クロウ法と呼ばれる数々の法律により白人による黒人差別は1960年代の公民権運動まで公然と行われた。しかし、この軋轢、抑圧が皮肉にも現代ポップミュージックのルーツとも呼べるモノを生み出した。簡単に振り返ると、南部の大農園の黒人奴隷により生み出された黒人霊歌(起源は分からないが、1862年に名付けられた)に始まり、そこから、一人か二人で歌うフィールド野ハラー唄(1860年代後半頃)へ。そんな孤独歌にリズムが加わる形でミシシッピ・デルタを中心としてブルース(1980-90年)へと発展。元フランス領のニュー・オリンズでは、“コド・ノワール”という独自の黒人法により音楽文化が栄えラグ・タイムやジャズ(1880年代後半)が盛んだった。アパラチア山地では、白人の伝統的バラッド形式と黒人の仕事唄が出会いカントリー(1800年代後半)となる。

南部の歴史を駆け足で振り返った。ではこのように生まれた音楽がどうやって北部へ伝わったのか、本題へ入ろうと思う。南部文化が北部へと移動するきっかけを作ったのは、第一次世界大戦だ。1914年に始まったこの戦争により、ヨーロッパからの移民が途絶えてしまう、それにより北部は労働者が必要になったこと。南部においても農業の機械化により人手が不要になったこと。ワタミゾウリムシの増殖による綿花畑の被害。さらに黒人に対するリンチが横行するなど差別が根強かったこと。これらの要因により南部の黒人は北部を目指した。1914-1950年までの間に多くの黒人が南部から北部へと渡ったため、このことをグレート・マイグレーションという。

この時、黒人音楽の文化面で重要な役割を果たしたのが、キリスト教ペンテコステ派の「キリストにおける神の教会(church of god in christ)」だ。この宗派は、1897年ミシシッピ・デルタに隣接する町レキシントンで黒人チャールズ・メイソンによって設立された。この教会は、自らを奮い立たせるために、礼拝で楽器演奏による世俗的な歌と踊りを積極的に取り入れていた。ニューオリンズ~ミシシッピからは、シカゴまで鉄道が続いていたため多くの黒人がそのルートで北上した。その中に居た、このメイソンの聖別派教会に通っていた黒人たちの手により北部で設立された。こう言った教会がゴスペルやR&B、ブルースやジャズを北部へ浸透させる拠点となった。

1916年~18年の間に、南部から北部へと移った黒人は約40万人に及んだ。行き先は、デトロイト(自動車メーカー)、ピッツバーグ(鉄鋼産業)、ニューヨーク(多様な職種)、シカゴ(屠殺場と鉄道)などである。北部へやってきた黒人が直面した問題は、仕事ともう一つが住宅であった。彼らは、シカゴを例にとるとサウス・サイドと呼ばれる地域に集住させられた。黒人の子供は死亡率が白人の子供に比べ2倍となった。この数字は彼らの生活環境の悪さを物語っているだろう。しかし、このシカゴの黒人居住区サウス・サイドでは、クラブができ黒人文化が花開いた。ニュー・オリンズの歓楽街が閉鎖されたことになどにより北上してきたルイ・アームストロングなどのミュージシャンたち。さらにミシシッピ・デルタから北上してきたマディー・ウォーターズなどのデルタ・ブルースのミュージシャンたちは、工場などで現金収入を得たここに住む黒人たちのために音楽を演奏することで生計を立てた。

こういった歴史を背景としてシカゴに根付いたブルースやジャズが1950年代以降のチェス・レコードを初めとしたレーベルによるブルース、70年代のカーティス・メイフィールド以降のニューソウル、ギル・スコット・ヘロンによるヒップホップへの萌芽、NYからシカゴへやってきたフランキー・ナックルズ以降のシカゴ・ハウス、そして現在ヒップホップ・シーンの中心にいるカニエ・ウエスト。そしてチャンス・ザ・ラッパーやチーフ・キーフなどの新たなシカゴ・ヒップホップ・シーンの台頭へと繋がっていく。駆け足ではあるが音楽都市シカゴが出来上がる過程を追った。次回は、現代の視点に立ち返り、いよいよチャンス・ザ・ラッパーをはじめとした新世代ヒップホップについて黒人の歴史を主軸に置き見ていこうと思う。寄り道をするかもしれないが。