【マーガレット安井の日々の泡1】花柄ランタンと僕と岡崎京子と

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花柄ランタン『ぼくらのフォークロア!』

花柄ランタン
ぼくらのフォークロア!
自主制作, 2016年
BUY: ライヴ会場など

「安井君さ、コラム連載してみない?」

ki-ftでレビューを書き始めて2年を過ぎようとしたある日の事、ファミレスで僕の先生でもあり師匠ともいうべき存在の方からこんな話を持ち掛けられた。ここではこうやって音楽について文章を書いてはいるのだが、本職は介護の仕事をしていて、「そんなことできるかな?」な内心思いながらも、好奇心が上回ったため「やります」と二つ返事で引き受けた。

ちなみに、本来このki-ftでレビューを書くときは自分の実生活や体験をあまり出さないように、つまりは自分語りをあえて避けていた。その理由としては私自身が客観的に作品を聴き、判断したいという批評家的視点からやっていた、という訳ではなく、単純に自分語りが恥ずかしいからである。そう、私は恥ずかしがりやなのだ。

しかし、こうやってコラムを書かせていただくのならば、自分の話も織り込みつつ書いていけたら、それはそれでありなのではと思った次第だ。これから月2回くらいを目安にやっていけたらと思うが、突然月1回に変わったり、はたまたこの連載自体が無くなったりする可能性も否定できない。ただ、無責任な連載のだけはならないよう注意はしていくつもりではある。まあ、マーガレット安井という「今時、少女漫画の投稿欄でもそのペンネームないだろ。」って名前の音楽好きが日々思ったことを連ねていく程度の物なので、皆さま生暖かい目で見てくれたら幸いであります。どうかよろしくお願いします。

さて、ハードルを思いっきり下げたところで、コラムの第1回目は去年の年末に起きたある出来事の話を1つ。

第1回【花柄ランタンと僕と岡崎京子と】

「いつまで、こんな生活が続くんだろ。」

ふと、そんな言葉が口から溜息のようにこぼれ出た。テレビでは今年を振り返るという事で、ドナルド・トランプが大統領選に勝利した事やイギリスのEU離脱の事をやっていたのだが、お金のない私は「今日1日どう生活するか?」の方が大問題であり、閑散とした財布の中身を見つめていた。

介護の仕事をして5年が経つ。2年前に介護福祉士の資格を取り去年、親元を離れ一人暮らしを始めた私ではあるが、朝から晩、時には夜中まで入居されている方の介護を行い、加えてあまり裕福とも言えない給料。子供の頃に思い描いていた自分の姿とは程遠い生活をする日々の連続で、いっそう、何もかも捨ててしまってビルから飛び降りてしまったら楽だ……でも内臓ぐちゃぐちゃ、のーみそパックリでカッコワルイし、何より仕事に穴を開けたら同僚にも悪いよな、って考えて思いとどまる事が続き、今に至っている。

最近、ある言葉をよく思い浮かべる。岡崎京子がその昔、『リバース・エッジ』のインタビューで語っていた言葉だ。

私は世界が終わってしまうといった世紀末の週末感より、むしろ“世界が終わらないこと”のほうが怖い。終わらない、この日常をジタバタと生きていくことの方が恐ろしい。(『クリーク』1995年4/20号より)

今の自分はまさにこんな感じだ。終わりがなく、先が見えない、この世界を生き抜いていくことは今の私には容易でない。多分、イギリスやアメリカに住んでいたら、EUから離脱したいと思ったし、トランプに投票したかもしれない。確かにトランプの言う政策はめちゃくちゃだし、EUから離脱した所で何も良いことがない事は私にだってわかる。しかし、それまで送っていた生活と何一つ変わらない日常がこのまま続くのであれば、それを壊したと思うし、それによって世界の情勢が悪くなっても、それならそれで良いとすら思ってしまう。こんな日常を生きるくらいなら、世界が終わってしまったほうが楽なのだから。

そんな時、私は花柄ランタンというバンドに出会った。京都を拠点として活動している男女2人組のフォーク・デュオであるが、彼らの音楽にはパソコンやループ・マシーン、エフェクターの類いは無縁であり、村上真平がアコースティック・ギターを鳴らし、中田ぷきは時々、鍵盤ハーモニカを弾きながら歌を唄う。今時こんなバンドいるかよ? ってくらい凄くシンプルな編成であるのだが、その姿に、その歌に物凄く惹かれてしまった。

ライヴ終了後の僕はすぐに物販へと駆け込み、この『ぼくらのフォークロア!』を買った。そこで描かれているのは私たちが生きている世界の些細な一コマの話である。「JABO」という銭湯に行ってお風呂に入る歌で始まり、次の表題曲「ぼくらのフォークロア!」では恋人同士で家で休日を過ごす様子が描かれる。ミュージック・ビデオも制作された「まなつのまじっく」は真夏の夜に2人で部屋を抜け出し浜辺を歩く、といったドラマチックな設定ではあるものの、結局2人の間には何も起こらない。

最後の「ズズズのズたろう」に至ってはラーメンを食べるだけの内容である。そう『ぼくらのフォークロア!』にはドラマはない。そこには私達も体験する、ありふれた日常だけが存在している。しかし、ただの日常を歌うだけなのにどうして心を打たれたのであろうか。

惨劇が起こる。

しかし、それはよくあること。よく起こりえること。チューリップの花びらが散るように。むしろ、穏やかに起こる。ごらん、窓の外を。全てのことが起こりうるのを。

彼ら(彼女ら)は決してもう二度と出逢うことはないだろう。そして彼ら(彼女ら)はそのことを徐々に忘れていくだろう。切り傷やすり傷が乾き、かさぶたになり、新しい皮膚になっていくように。そして彼ら(彼女ら)は決して忘れないだろう。皮膚の上の赤いひきつれのように。

平坦な戦場で僕らが生き延びること。(岡崎京子『リバース・エッジ』より)

リバース・エッジ』のあとがきで岡崎は自身の作品についてこう書いた。『リバース・エッジ』では世界は常に異常な状態(戦場)と隣り合わせであり、それは些細なきっかけで突如として表出する。しかし、その表出した惨事は日常の平坦さの前にいつしか見えなくなってしまうという事が描かれた。

私たちは時に「今日は何もなかった。」「私の人生は何もなかった」と言ったりするが、果たして本当に何もなかったのだろうか。例えば今日あった事をこんな風に文章に起こす。すると、今日の出来事は『ロッキング・オン』のインタビューくらいの文字数にはなるだろう。そして、その文章の中には様々な感情が沸き上がる瞬間があるはずである。しかし、日常とは平坦であり、そんな感情を有した様々な出来事は見えなくなってしまい、結果「何にもなかった」と思ったりする。

花柄ランタンはそうではない。そんな日常にある平坦さを取り除き、劇的な瞬間ではない日常を描く。そして、村上のアコースティック・ギターの伴奏に合わせ、中田は誰よりも明るく、誰よりも自由で華やかに、普通の日常を歌う。それはまるで、“こんな日常も悪くはない”と伝えるかのように。私たちの生きる日々に「何もない」という言葉はない。時間の中に散らばった些細な幸せを見つけ出し、日常を生きてい行くことがいかに素晴らしいと教えてくれる作品。

平坦な戦場で僕らが生き延びる方法。それが『ぼくらのフォークロア!』だ。