

ASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文は、我々の取材において、好きな作家としてカズオ・イシグロ、村上春樹の名前をあえて挙げ、音楽における“ひとが作るゆらぎ”の重要性を強調した。その話から私はヒツジツキを思い出した。関西三都から集まった三人によるギター・ロック・バンド。名前の由来は村上春樹『羊をめぐる冒険』。三作目のミニ・アルバム『tomorrow’s today』を発表する彼らも、90年代USインディーに影響を受け、生演奏のグルーヴにこだわっている。
加えてヒツジツキのベース和田奈裕子は、村上春樹は勿論、高橋源一郎や佐々木中の著作を愛読しているが、これらは後藤がたびたび言及する名前でもある。さらに和田は「古の民俗学などの書物の智恵は生きるうえで信頼できる。生身の人間よりも支えになるかもしれない」という内容を私に語ってくれたが、一方、後藤は「民間伝承が重要なのは、歴史書と違ってときの権力者の恣意、勝手な解釈が入らない、その時代を生きる人々のありのままの風俗が記される」という内容を繰り返し発言している。
「物事には“二面性”がある。自らの“偏見”を疑え」。これはヒツジツキのギター・ヴォーカル堤俊博が、新作からのMVを説明する際に私に語ったキー・ポイントだが、先述の和田や後藤の発言から、そのまま話がつながっていく。インタビューをまとめながら、まるで『羊をめぐる冒険』の主人公の気分になってきた。何かに導かれているかのような……。とにかく彼との会話を記していく。
権力が時折見せる横暴さに対してのヒツジツキなりのアンチテーゼ
本作を“非常にシンプルに「一人でも多くの人に届けたい」という想いで作った”と堤はいう。MV冒頭に出てくる獣や、MVで彼が被る羊の仮面が象徴するものは何なのか、と問うと彼は一気に語り出した。
「冒頭で地上から地下室を窺っているのは“オオカミ”です。そして地下室で演奏する僕の顔に時折、“ヒツジ”の仮面が被さります。両者はそれぞれ“狩るもの”と“狩られるもの”の象徴ですよね。このMVは物語になっています。
ヒツジ達が儀式的な演奏により地下室に潜む“魂”を解放するために、風船に乗せ地上へ送り出そうとします。しかし地上に出るや否や、それを阻止するために、オオカミが風船を割ってしまう、という筋書きです。この物語で表現したかったことは、権力が時折見せる横暴さに対してのヒツジツキなりのアンチテーゼです。」
彼はさらに付け加える。表現したかったことはそれだけではない。自らの“偏見”を疑うことの大切さ、物事には“二面性”が存在するという事、そして作品への“葛藤”も滲み出ているという。
そこでまず、私はたずねた。彼らの作品を象徴する“魂”を乗せるものがなぜ風船なのか、そんな不安定な、心もとないものでいいのか。それにMVのラストでオオカミが無慈悲にも風船を割ってしまうのは、それは童話であればバッド・エンドではないのか。その問いに対して彼は口許でかすかに笑って、続けた。
「一般的なイメージを捨ててください。もしオオカミが善意の持ち主だったとしたら。そう捉えなおしてみてください。“風船”は字のごとく、あてなく風に身を任せ彷徨うしかない船なのだから、それでは“魂”が寒空で迷子になり、今より惨めな孤独に陥るのは明白。それではあまりに可哀想。そうオオカミが考えたとしたらどうでしょうか?」
つまり我々が悪意だと思っていたことが実は善意そのものである場合もある、と彼は言うのだ。
「そうです。孤独を、寂しさを誰よりも理解している一匹狼ならではの優しさだったのかもしれません。乗り物を“頼りない風船”にすることで、“実はオオカミの行動は善意だった?”という見方も潜ませ、普段から当たり前だと思っている自分の見方はひょっとしたら“偏見”じゃないかと疑ってみることの大切さを込めています。」
彼の話はいささか感傷的に過ぎる、話のなかのオオカミと自分を同一化しそうなくらい。そういえばMVの最後で風船を割ってしまうオオカミが来ている服はMVの堤と同一だ。つまり彼がオオカミの仮面を被って演じている?
「この二匹は、ここでは仮面違いの一人の心なんです。誰しもが誰かにとって“ヒツジ”に成り得る反面、同時にその他の誰かにとっての“オオカミ”にも成り得てしまう、そういった立場による二面性を表しています。」
彼の口調は一気に熱を帯びる。
「最近の話題でいえば、Twitterでの食品異物混入事件なんかもそうですが、本当はまずお店と直接話し合って改善を求め、お互い納得する方向に落ち着かせるのが本来の形ですよね。もちろん、非のあるお店側の態度が失礼であったら、その時は世間に訴えてしまえばいいと思います。ただ、当事者間の話し合いなしにいきなり、あの店で買うのはやめよーぜ! と世界に言って大きく広まってしまえば、何の罪もない社員やパートの方をも路頭に迷わせてしまうかもしれません。それが誰かの肉親だったり愛する人たちだった場合、被害者だったはずのその人は、一転して憎むべき加害者となってしまう。
自らは被害者と思いながら、いつのまにか加害者になってしまう。そういったことはたびたび起こり得ます。それをふまえて、物事の見方を偏見なく広くしてみることで、この世界には救える魂がたくさんあるんじゃないか。そう訴えたいのです。僕らの肌が象牙色(ivory)になってしまう前に、ヒツジがレクイエムを演奏する前に、戦争が起きてしまう前に。」
最後にたどたどしく加えられた連想には、彼のこれまでの人生が込められている気がした。かつて村上春樹はJ.D.サリンジャー『The Catcher in the Rye』をして、青春小説(≒羊)の皮を被った戦争小説(≒狼)だと語った。著者の従軍体験によるトラウマを癒すために描かれたのが『ライ麦畑でつかまえて』だと。ヒツジツキの音楽にも同じことが言えるかもしれない。

J.D. サリンジャー(著)、村上春樹(翻訳)
白水社, 2006年
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ところで堤は思い出したようにこう付け加えた。
「先ほどオオカミとヒツジは同一だと言いましたが、そこには自らの作品、つまり風船ですね、それを知ってほしい、けれど本当に受け入れられるだろうか、その自信のなさが獣を生み、作品の発表を拒むという、“顕示欲と、受け入れられないことへの恐れ、その葛藤”も表しているのかもしれません。」
J.D.サリンジャーは晩年、作品を発表せずに隠遁生活を続けた。こういった一連の連想は、その場ではあえて告げなかった。彼らは地下室に引きこもったりしないからだ。実際、堤はすでに次回作の構想を練り出しているという。
僕はもともと、音楽を聴くという事は、無機質で逃げ出したくなるような現実世界からの、ひとつの救いであると考えています
話が重くなってきたので話題を変えた。アルバム・タイトル『tomorrow’s today』は「明日のための今日」とでも訳すのだろうか。
「そういう解釈で大丈夫です。僕たちは誰もが同じ時間の中、明日だった今日を昨日にしながら生きています。そして悲しい事があった時には、いつかは今日だったあの日に何をすればよかったのだろう、という後悔を抱えて生きている。
三部作の中にいる“君と僕”ももちろん同じです。どういう後悔を抱き、そして今どういう気持ちで明日を今日にしているのか。そういった誰しもが抱く後悔の気持ちとの対峙、そして明日前に進むために今日は何を思い、何をすればいいのだろうという未来への対峙、そこに『tomorrow’s today』はテーマを置いています。」
アルバム・トレイラーからも、「ivory」の曲調や歌詞からも、三部作最後の今作は、よりコミットメント(直面すること)に主眼を置いている気がした。そのことを問うと。
「収録曲のなかでも、「もっと触れてあげればよかった」と後悔し、そして今は「触れられたいと願っている」と歌っているのが「ivory」で、より強く相手を求めている歌ではあるので、過去作よりもコミットメントではあるのかもしれません。
僕はもともと、音楽を聴くという事は、無機質で逃げ出したくなるような現実世界からの、ひとつの救いであると考えています。いつか自分が救われた音楽で、誰かを救いたいから、僕は音楽を作り続けている。そして今作はそういう作品になったと思っています。過去の後悔を抱いて今を生きている人たちに、聴けばいつでも、救いの手と、あるべき心の位置を示唆することができるような。」
何より彼自身が作品に救われているのかもしれない。彼の語りや表情からそう感じた。本作は過去作に比べ、軽快で輪郭がくっきりしていて、情熱や切迫感よりも、希望やユーモアがより伝わってくるメロディー、リズム、音像になっている印象だ。今まで以上に多くの人に受け入れられると思う。
歌詞や表面的な音楽性、ジャンルといった直接的なものではなく、その楽曲全体から滲み出てくるものこそ、最もリスナーに訴えかける。私は常々そう考えている。胸を打つ音楽には演奏者の内面が自ずと反映されるのだ。
良い音楽の基準を、売れる、売れないに引けば、その時代の最大公約数の心情を表現しなければいけない。しかし、後藤正文のGotch名義のソロ作同様、ヒツジツキの新作はそこには重点を置いていない。彼らが演奏するのは自分達の信じる普遍的な何かだ。それが結果的に時代の行く末とクロスする瞬間が訪れるかもしれないし、何より本来あるべきロック・バンドの姿だ。今そのものを鳴らすことはすなわち過去でしかないから、彼らが鳴らすのは今日であり、同時に想像の先にある未来だ。

tomorrow’s today
clear/SPACE SHOWER MUSIC, 2014年
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