【ki-ftレビュアーが選んだ2017年の1枚】tofubeats『FANTASY CLUB』
- By: 関西拠点の音楽メディア/レビューサイト ki-ft(キフト)
- カテゴリー: Disc Review
- Tags: tofubeats


年の瀬もせまり、我がki-ftでも年間ベストとなるものを決める時期となった。今年、関西の作品だと台風クラブやバレーボウイズ、Special Favorite Musicなど特にインディ、インディーズに関しては充実していたように感じる。しかし“今年を代表する1枚”を選ぶとなった瞬間、レビュアー全員はある1枚のアルバムを挙げた。
その1枚は2017年を明確に象徴する作品であり、個人的には2010年代を代表する一作だと自信を持って勧める。それと同時に、本作は聴いた人間によっては同じ音楽を聴いているはずなのに、全く違った印象を受け取るアルバムでもある。今回は私を含めたki-ftのレビュアー二名でこの作品のレビューを行う。少々長い文章となるのだが、お付き合い頂きたい。
そうだ、まだ作品の名前を言ってなかった。その作品の名前は、tofubeatsの『FANTASY CLUB』だ。(マーガレット安井)
インターネットとともに生きるための生存戦略
しかし自分がそもそも芳醇なものを浴びて(浴びようとして)育ってきたかと聞かれれば否だと思うし、全力でその流れに抗っているか? と問われれば少々答えるのは難しい。/なんとなく世間がよくなくなっているイメージこそメディア越しに植え付けられてしまったものなのかもしれない。そしてこの文章もそんなぼんやりとした不安を植え付ける作用があるのかも。(『FANTASY CLUB』ライナーノートより)
「自分にそれを言う資格があるか?」「そう言う自分は同類じゃないのか?」「それは本当に自分の意見か?」。SNS上を歩き回る今の私達には、何かを言おうとするたびにそう囁く影が常につきまとう。それは初めこそフォロー/フォロワー外の誰かだったかもしれないが、今となってはまるでもう一人の自分のように、すっかり心の中に棲みついている。本作のブックレットから引用した文を読む限り、tofubeatsもまたその影に苛まれる一人らしい。私たちがそうやってきりのない自己問答を繰り返すのは、ひとえに、自分のコミュニティの外も出来るだけ見えていたい、視界の外への意識を忘れずにいたいと願ってやまないからだ。2017年もなおそんな望みを捨てられないまま、私たちはツイート/ポストを続けていた。
遡ること6年前、2011年にかけて放映された『輪るピングドラム』というアニメがある。さまざまな理由で親から愛されなかった少年少女が、自らの酷な運命を変えるため奮闘するSFファンタジーだ。作中では“生存戦略”という言葉がシンボリックに使われ、その“生存”とは、誰か一人からでも無償の愛と承認を得ることができれば果たされるものであった。対してそれが叶わなかった子供は“こどもブロイラー”と呼ばれる施設に送られ、“透明”な存在にされてしまうのだとされた。おそらくこの“こどもブロイラー”は名の通り画一的な義務教育のたとえで、”生存戦略”もまた物理的な生死の話ではなく、寄る辺ない現代の子供達が己を見失わずに生きてゆくための精神の闘いなのだ(※1)。筆者は本作『FANTASY CLUB』を表すワードとして、この”生存戦略”を拝借したい。
『FANTASY CLUB』のハイライトはやはり、「CHANT #1」から「WHAT YOU GOT」までの一連の流れにあるだろう。「CHANT #1」「SHOPPINGMALL」から始まるとりとめのない憂いは「LONELY NIGHTS」「CALLIN」にかけて加速し、より深く内省的になっていく。「OPEN YOUR HEART」のスロウなトラップからじわじわと刻みを増やし四つ打ちに移行していくビート、「FANTASY CLUB」のうっすらとした不協和音を絶やさないシンセは、言葉の追いつかない速さで堂々巡りを繰り返すメランコリーそのものだ。そして無機質かつノスタルジックな「STOP」のメロディで、聴き手は、潜りすぎた思考がふっとすくい上げられる瞬間を追体験する。まるで深夜の天気予報で流れるアール・クルーのようなこの安堵は、アンセム「WHAT YOU GOT」で“他のこととか別にいいよ”と苦悩を振り払うための助走になる。しかしあらゆる“単純な動き”から感情を読み取ろうとする「YUUKI」で、心はふたたび「WHAT YOU GOT」での宣言と相反してしまう。本作は最後まで社会へのまなざしと精神を守ろうとする意思の間で揺れ続け、前作『POSITIVE』のように明らかな解を出すことはない。
“ポスト・トゥルース”という言葉によって、私達は“見えていたい”という望み、ムラの外への想像力がいかに無謀で傲慢なものであるかを思い知らされた。壁の向こうの誰かに話しているつもりでもそこは砂漠かもしれないし、遠目には荒野にしか見えない場所こそ実は巨大都市かもしれないのだ。それでも視界の外に誠実でありたいと願う以上、私たちが自己問答と縁を切ることはないだろう。しかし毎度正面から向き合えば神経はすり減る一方で、だから私たちには、誠実をあきらめず己を見失うこともなく、インターネットとともに生きていくための“生存戦略”が必要なのだ。そしてそれは、尽きることのないメランコリーを決して解へと踏み込まないまま分かち合う、というアルバム全体の姿勢に他ならない。それがかつてレペゼンとしたインターネットと愛する音楽への最も誠実な態度だとして、tofubeatsは“わからない”というテーマを掲げたのだろう。『輪るピングドラム』の主人公たちが現代の過酷さを愛とともに分け合ったように、『FANTASY CLUB』の生々しい憂悶は、インターネットの現在を分かち合うことでより強く立つための“生存戦略”なのだ。(吉田 紗柚季)
※1『輪るピングドラム』の詳細と、アニメの命題である95年問題については「京都大学新聞社/Kyoto University Press » 〈企画〉アニメ評 輪るピングドラム(2012.02.16)」の論考が詳しい。

FANTASY CLUB
ワーナーミュージック・ジャパン, 2017年
BUY: Amazon CD,
長い言い訳
※今から書く内容はレビューとか論考といった類いのものではない。どちらかと言えば、言い訳みたいなものだと考えてほしい。
正直なところ、困っている。『FANTASY CLUB』は2017年を代表する1枚であり、2010年代で最も重要な1枚である事に間違いはない。だが結論を言えば、私はこの作品のレビューを書きたくない。本作と対峙すると“音楽的な良さを伝えたい”という気持ちよりも、“この作品に対しての結論を書きたくない”といった気持ちの方が強くなり手が止まるのだ。
「お前はまがりなりにも“音楽批評”と言われるものを書いているんだろ。読む人が納得するレビューを書いてみろよ。」
つい先日、この事を友人に話すとこんな言葉をかけられた。「無理なものは、無理だ。そもそも『FANTASY CLUB』は誰もが納得し、その作品の芯を捉えた“決定的なレビュー”は書けない作品だ。」と僕が答えると、しびれを切らした友人は僕の前でこの作品のレビューを鮮やかに書き上げてみせた。
※※※
tofubeats『FANTASY CLUB』
本来の意味でtofubeatsの作家性が開花した作品である。メジャー3作目となる『FANTASY CLUB』であるが、前2作と本作は決定的に違う部分がある。それは曲のタイトル内にフィーチャリング・アーティストを明記していない点だ。以前ならば「Don’t Stop The Music feat.森高千里」「すてきなメゾン feat. 玉城ティナ」といったように過去2作であればフィーチャリング・アーティストを明記していたのだが、本作ではKANDYTOWNのYOUNG JUJUがライムする「LONELY NIGHTS」にも、Sugar meが歌う「YUUKI」にも、アーティスト名がクレジットされていない。さらに本作の歌詞を見ていけばわかるのだが、ほぼ全編tofubeatsのモノローグで作品が語られる点も特徴である。
この違いを考えた時、前作までは職業作家的な作品的な色合いが強かった事を思い出す。すなわち今までは、自分の曲を歌ってもらいたいアーティストにオファーをしてから歌詞を行っていたのだ。しかし本作からtofubeatsはマネジメント事務所から独立した事もあり、自由に作品を制作できる環境が整った。そのため『FANTASY CLUB』はtofubeatsという人間を投影した、すなわち“職業作家”ではなく“作家”として自らの思想を前面に出した作品となったのではないだろうか。そういう意味では本作は内面的な暗さはあるが、自分自身と対峙した点において新しい道が開けた一作だといっても良いのではないだろうか。
※※※
この文章を書き上げたあと、「どうだ決定的なレビューが書けただろ。」とご満悦な表情で友人は言ったのだが、正直なところ、このレビューも“決定的なレビュー”だとは思えなかった。そもそもな話、本作に対して書かれたレビューはどれも“決定的”にはなれないと考える。なぜなら本作は核心部が空洞化しているため、芯を捉えた批評・レビューが出せない作品だからだ。つまりはこう言う事だ。
『FANTASY CLUB』は“作者であるtofubeats自身もその本質を理解できていない作品”なのだ。
この作品に対してインタビューでtofubeatsが常にキーワードとしてきた言葉がある。それが「わからない」だ。
ノリや理屈で突破するっていうんじゃなくて、とにかく「わからない」と向き合ってみようと。
(インターネットの憂鬱──トーフビーツ、インタヴュー)
だから早く世に出てわかりたいですよ、レビューとかみんなの反応を読んで。
(【インタビュー】tofubeats『FANTASY CLUB』 | わからなさの明快)
“わからない”に向き合った作品、それは“無意識と対峙して生み出された作品”だと翻訳できるし、だとすれば本人がわからない以上“決定的なレビュー”など生まれるはずがない。しかしそれがゆえに、聴衆はtofubeatsの“わからない”に対して様々な視点で見解を語る事が可能であり、その結果ネット上には今年、本作に対してバラエティに富んだ批評が散見された。
さてそう考えると、このタイミングでtofubeatsは自らの無意識と向き合ったのだろうか。それを語る上で必要となるのが、本作のテーマでもある“ポスト・トゥルース”という言葉だ。
※※※
「世論形成において、感情や個人的信念に訴えるものの方が客観的事実より影響力を持つ状況」の事を指しているポスト・トゥルース。それは反知性主義が横行していたアメリカにおいてドナルド・トランプ登場により表面化された言葉であるが、そのような状況はアメリカだけでなく、私たちの住む日本でもある。
例えばTwitterの炎上騒ぎ。不用意な発言をしたための炎上なら理解も出来るのだが、ツイートした発言の一部だけを切り抜いて本来の意味とは違う受け取られるようなツイートをする人間、ツイートした内容を曲解して批判をする人間、またそういうツイートに踊らされ批判をする人間、など誤配された内容でもバズらせた途端に正義になる瞬間を目撃することがある。
このような光景を眺めながら、3.11以降助け合いの文化で拡張されていったTwitterがバズ至上主義な空間になってしまった事に憤りと哀れさを日々感じているが、それはtofubeatsも同じであるように感じる。
インターネットを始めた頃は面白いものが昔よりもっと評価されやすくなる未来がくるぞ! と信じていたが、今となっては全く逆で、全てがバズみたいなものと結び付けられていれば、物事はきっとさらに低い所に飛び込んでいくだろうと思う。[……]本当に人間が求めているものは下世話な話題だけだったりするのかもしれない。(『FANTASY CLUB』ライナーノートより)
そんなポスト・トゥルース化する社会に私たちはどう立ち向かえるのか? そんな事を考えていた時にヒントとなる作品を見つけた。去年公開された森達也監督の映画作品『FAKE』だ。
『FAKE』はゴーストライター事件以降の佐村河内守について撮られたドキュメンタリー映画だ。全聾の大作曲家からペテン師になってしまった佐村河内守だが本作ではペテン師とは思えない姿が次々と映し出され、音楽家になるラストシーンは「じゃあ、ペテン師だと思っていた佐村河内守って一体?」と思わされる。
森達也はこの作品のインタビューで「『真偽は簡単に決められないし、そもそも真実はひとつではない』と気づかなければいけない。」(『FAKE』──それは付和雷同の国への楔:森達也、15年ぶりの新作を語る)と語っていたのだが、それは偏見や他者の意見に流されるのではなく、出来事の余白を考える事こそが私たちには必要ではないか、と言っているようにも考えられる。それこそがポスト・トゥルースに打ち勝つ方法だと気がつかされた。
※※※
話を『FANTASY CLUB』へ戻す。tofubeatsの無意識を投影した本作に対して私が結論を出さずにいるのは、まさに森達也が監督した『FAKE』と同じ構造を持つからだ。つまり『FANTASY CLUB』はこの音楽を聴く人へ“良い?悪い?”の二項対立を求めた作品ではなく、“グレー”の部分を語るためのアルバムであり、脊髄反射的な感情や個人的信念といったポスト・トゥルース化する人々へ、彼の無意識を提示して、それについて考える事、語る事、の重要性を説く作品であるのだ。
そのように考えれば、彼がインタビューでの「だから早く世に出てわかりたいですよ、レビューとかみんなの反応を読んで。」という発言や、この作品がtofubeatsのモノローグな問いかけに終始している点も理解は出来る。そう『FANTASY CLUB』は“グレー”な部分の回答を求めているのだ。だから聴衆から考えを導き出そうとする本作と対峙した時に、私はいつもこんな事を思う。
「この場で結論を出すのはナンセンスだ。なぜなら私が結論を出すのではなく、これを読むあなたが結論を出さなくてはいけないのだから。」
まあ私が手をこまねいている間に「“なんだかわからない”がその“なんだからわからない”を言葉で埋めたい」というナードな音楽好きたちがブログ等で文章を発信している姿を見ていると、tofubeatsがこのアルバムを2017年に発売された意義もあったように思えてくる。
言い訳をするつもりが、つい長々と話し込んでしまった。最後に私からのお願いだが、もしこの文章を読んで何か感じる人がいるなら『FANTASY CLUB』を語ってほしい。気負いする必要ない。tofubeatsが“わからない”と言っている以上、このアルバムに結論は存在しないし、無数に答えが存在すると言ってもいいだろう。その中からあなたの回答を紡ぎだす、それがポスト・トゥルースに立ち向かえる唯一の方法なのだから。
『FANTASY CLUB』のレビューはこの文章を読む“あなた”に委ねる。(マーガレット安井)