【レビュー】音楽で国を変えようとした男 | フェラ・クティ『ゾンビ』
- By: 安井 豊喜
- カテゴリー: Disc Review
- Tags: 1976年の音楽, Fela Kuti


Zombie
Knitting Factory, 1976年
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フェラ・クティと言えばファンクやジャズ、アフリカ音楽などを咀嚼し“アフロビート”という音楽を確立した人物であるが、そのダンサブルなサウンドとは対照的に歌詞は黒人の解放や母国ナイジェリアの政府を非難したものが目立つ。ナイジェリアといえばアフリカ大陸では最大級の石油産出国であるが、上流階級の人間はごく一部あり、国民の大半は貧困に苦しむ状況が古くから続いている。この国を音楽で変えようとフェラは白人に強制的つけられたという理由でミドルネームであったキリスト教の洗礼名を捨て、ナイジェリアにて活動を行っていた。反政府的な姿勢から何度も言われのない罪で逮捕されたが、それでも彼は屈せず、その体験すらも自らの音楽へと変えていった。その集大成となった作品こそ、この『ゾンビ』である。
表題曲でもある「ゾンビ」は名前だけ聞くと禍々しく重たい印象を持つが、むしろ軽快で誰もが踊れるようなサウンドに仕上がっている。冒頭でギターと太鼓のリズムに引導されつつ、口火を切ったかのごとくフェラの攻撃的なサックス・ソロが鳴り響き、ブラス・セクションが楽曲へ熱をもたらす。一糸乱れぬアンサンブルが展開する中で楽曲中盤ではフェラはこう歌う。
「ゾンビは命令者なきゃ話す事も出来ない。ゾンビは命令されなきゃ働くこともできない。ゾンビは命令されなきゃ考える事もできない。あいつに命令しろ、まっすぐ進めと。あいつに命令しろ、殺せと。ジョロ・ジャラ・ジョロ(左へ、右へ、左へ)。脳みそは空っぽ、ジョロ・ジャラ・ジョロ。何も考えない、ジョロ・ジャラ・ジョロ。」
ゾンビといえば死体のまま蘇った人間の総称であり、映画や小説では個人の意思を持たず、ただただ人を襲う描かれ方をされている。フェラはナイジェリアの軍隊をゾンビ、政府を命令者だと皮肉り歌っているが、これは“意思を持って行動できない人間への嘆き”というようにも捉える事が出来る。また、この『ゾンビ』という作品には「Mr.Follow Follow」という西欧に追従する者への目覚めを説いた曲も収録されており、フェラは「目を開き、耳を開き、口を開け、自分のセンスで行動せよ」と歌う。すなわち『ゾンビ』という作品を通して、「命令されて動くのではなく、正しいと思う事を自分で判断し行動する事こそ人間のあるべき姿なのではないか。」というメッセージを伝えているようにも思えてくる。
この曲をよほど政府や軍隊に聴かせたかったのか、一説では彼の自宅であり、志を同じくして集まった仲間たちのコミューンであったカラクタ共和国から大音量でこの曲を流したとも言われている。これ聴き、政府も黙って見過ごす事はなく翌年カラクタ共和国は軍の襲撃を受け、フェラやその親族、仲間たちは激しい暴行にあい、火を放たれて焼き払われてしまう。この事件後も彼は音楽活動を続けたが、晩年には度重なる政府の弾圧と自分の主張がナイジェリア国民に通じないことに絶望し、創作意欲が減退したとされている。洗礼名を捨てた事や反政府的な言動は宗教的な真面目さ尊ばれるナイジェリアにおいて彼の言動はあまりにも過激すぎたのだ。この時代、ナイジェリアの音楽家といえばキング・サニー・アデやシキル・アインデ・バリスターもいたが、フェラの活動には賛同しなかったとされている。
97年にフェラが死去してから15年以上経つ。彼の思想は通じなかったが彼の音楽であるアフロビートは彼の息子であるフェミ・クティやシェウン・クティ、そして世界のミュージシャン達に今も影響を与えている。それは彼のトリビュート『Red Hot + Riot』でディアンジェロやシャーデー、ナイル・ロジャースといったアーティストが参加している事からも窺い知ることができる。しかし、彼の母国ナイジェリアは現在でも貧富の差は大きく、民族、地域、宗教間の紛争や暴動、イスラム過激派によるテロ行為が日常的に起こっている。この現状を空の上から見ている彼はどう思っているのか。もし生きていれば、どんな歌を作ったのか。もしかしたら、ナイジェリアの未来を切り開くような傑作が出来上がったのでは。『ゾンビ』を聴くと思わずそんなことを考えてしまう。