【クロスレビュー】ギリシャラブ『(冬の)路上』
- By: 関西拠点の音楽メディア/レビューサイト ki-ft(キフト)
- カテゴリー: Disc Review
- Tags: ギリシャラブ


視点は冗談からストレンジな現実へ
京都の邪悪なお兄さん&お姉さん5人組、ギリシャラブ。昨年のフルアルバム『イッツ・オンリー・ア・ジョーク』は全編通し、いびつなボキャブラリーで積み上げてきた物語をラスト前のタイトル曲で“これはただのジョークだから”と積木を崩すオチを付け、最終曲「ギリシャより愛をこめて」で“だんだんどうでもよくなってきた”と極めつけにほっぽらかす。まるで北野武「ソナチネ」のラストシーンさながら、銃声音で自ら物語を更地にし強制終了。そんなモヤモヤしたエモーショナルと思い切りのよさが痛快だった前作から1年。5曲入りの本作『(冬の)路上』に全体でのストーリーはなく、それぞれの楽曲を立たせるようなオムニバス構成だ。ただし共通しているのは天川悠雅(Vo)が“現実から不条理を救い上げ、考えあぐね時には愛でる、ストレンジな様”であり、ファンタジーに冗談めかした前作とはまるで対極の視点を持った作品なのである。
“よく覚えとけ。現実は正解なんだ”――立川談春の名著〈赤めだか〉に出てくる談春が立川談志から言われた言葉がふと浮かんだ。たとえ世の中がおかしかったり、道理や常識から外れていたとしても、起こった現実は絶対的なもの。そうなれば本作の冒頭を飾る「からだだけの愛」は身体だけの関係でも、セックスしている間だけは本当の愛かもしれない。現実はその二人の間だけに確かに存在する。そんな動物的で数奇な事実は80’sディスコ・ビートに乗っかる天川と中津陽菜(Dr,Cho)による男女の無表情なコーラスと共にノワールかつロマンチックに響いてくる。また「ブラスバンド」では“死んだらおしまい それがルールさ”と念押すように歌うが、ともすれば死は現実世界でのルール(=規則・設定)に過ぎないと自らに納得させようとしているようだ。そして終曲のミニマムなラテン・ファンク「どういうわけか」ではさらに発展し生と死をどうにかセグメントしようとする中でついに箍が外れおもちゃの拳銃を撃ちまくる。しかし前作で物語を潔く締めた銃とは意味合いが違い、ふるえながら撃つ手には覚悟も分別もない(もちろんその方が市井の人間としては正常の狼狽だ)。そんな現実は小説よりも、冗談よりも奇なりで理解しがたい、という天川の本作でのスタンスが“どういうわけか”という言葉に集約されている。また徹底的に達観した視点が貫かれている天川の歌唱は現実を対象化し、自分自身はこの世の人とは思えない危うさ、つまり“内的にラリってる”雰囲気を増強させている。
そんな本作の危うさに対して、唯一救いの蜘蛛の糸となっているのが前作よりもアプローチが四方に飛んだキャッチーなサウンドだ。起伏が緩やかで朗々としたメロディが露悪的なまでに浮き出してくるリッチでデカダンスな演奏は天川と同じく結成時からのメンバー取坂直人(G)と本作から加わった山岡錬(G)による2本になったリードギターの功績も大きいだろう。
こんなめんどくさい現実に視点を転換させたのは昨年の埜口敏博(前Ba)の急逝により、否が応にもバンドの再構築に直面したからか。はたまた本作のレーベルオーナー志磨遼平(ドレスコーズ)との出会いから視野が広がったからか。事実は天川に聞いたって「なるほど確かに~」と言うだけでけむにまくだろう。冬の路上で吐く息のように。(峯大貴)
おことわり
今から始まるマーガレット安井のギリシャラブ『(冬の)路上』のレビューは蓮實重彥『シネマの記憶装置 』から多大なるインスパイアを受けております。そのため、普段のマーガレット安井のレビューよりも、幾分か読みづらくはなってはいますが、それは意図的であって、その理由も読み進めれば理解できる構造になっております。それでは『(冬の)路上』のレビューを開始いたします。
年代を越えた魂の共鳴
「政治家とか金持ちといった他人どもがなにを望もうが、そんなのとは関わりなしで一生活きる。だれも邪魔しない、すいすいと自分の道(ウェイ)を進めるぞ」同感だった。やつはもっとも単純明快な形でやつなりのタオに行き着こうとしていた。「おい、おまえの道(ロード)はなんだい?[…]どんなことをしていようがだれにでもどこへでも行ける道(ロード)はある。さあ、どこでどうする?」
(ジャック・ケルアック『路上』より)
ジャック・ケルアックの『路上』は構成を練らずして、即席にて3週間で書き上げられた文学作品だが、この『(冬の)路上』の1曲目にあたる「からだだけの愛」が「酒に酔っているときに(歌詞や曲の展開も含めて)一気に書いてしまった」[1]というエピソードを読むにあたり、「ギリシャラブの天川悠雅にはジャック・ケルアックが憑依したのでは?」といった由無し事が頭を掠めたが、本作を聴いて『(冬の)路上』という作品が本当にジャック・ケルアックの『路上』と同義的立ち位置であったことから、天川悠雅とジャック・ケルアックは「年代を越えた魂の共鳴」を起こしており、ビートニク、ヌーヴェルヴァーグを代表した作家なら「誰しもが持っていた物」を天川も持っていると結論に至ったわけだが、では「誰しもが持っていた物」とは一体何かと問われれば、それを説明する前にまず『(冬の)路上』が「『路上』と同義的立ち位置」という点について回答を明示する必要性があり、そしてその回答を明示するならば『(冬の)路上』も、ケルアックの『路上』も「ストーリーがない作品」、すなわちフィクションでありながら、起承転結がなく、エピソードで綴られた作品だと答えられ、それこそ天川が歌詞を書くのに参考したマルグリット・デュラスの『モデラート・カンタービレ』やビートニクの作家たちもそのような手法で書かれた作品が多かった訳で、では『(冬の)路上』はどうか、と問われれば、「物語性を排してポップな曲を5曲集めてポップ・アルバムを作る」[2]とインタビューで語っていた通りで、本作はフォーク・ミュージックも、サイケデリックも、ディスコ・ポップも、ニュー・ウェーヴも、そしてブラジル音楽までもを自由に行き来しながら、其々の楽曲が眩い光沢を放ち、とはいえ「作品集」という言葉で括られるような寄せ集め的なスタンスではなく、単一した精神がジャック・ケルアック『路上』の道(ロード)のように一本の軸となり貫通した、まさにストーリーのない作品であり、ではその「貫通する精神」とは何かと問われれば、それこそが「誰しもが持っていた物」、すなわち「逃避の肯定する精神」だと答えるわけであり、本作の「ブラスバンド」をみていくと
ぼくらはきっと野垂れ死にさ
冬の路上で
なけなしはたいて買ったバラを
胸に抱きながら
と、死をモチーフにした歌詞に、サウンドは80年代ニュー・ウェーヴを思わす、キャッチーで明るい曲調を合わせており、その試み自体は例えば近年だとアノーニの『ホープレスネス』の楽曲群や日本に馴染みがある曲だとピチカート・ファイヴの「悲しい歌」で使われている手法、すなわちサウンドと歌詞で敢えてコントラストの違う物を置く、映画で言うところの対位法的なやり方なのだが、これにより悲し気な歌詞だと悲しさだけでなく別の感情を誘発する効果があり、この「ブラスバンド」の場合も例外でなく、悲しい歌でありながら悲しさだけではない楽観的なもの、より具体的にいえば「死について楽観的に思う人間の歌」のようにも考えられ、そのことを頭に入れ次の曲である「ペーパームーン」を聴くと
紙の月を部屋に浮かべて
その引力で水を増やして
船を浮かべどこへ行こう?
君とふたりどこへ行こう?
と、現実からの逃避を歌詞にしており、これらの事から考えると、『(冬の)路上』という作品は、“社会とか現実から切り離された人間”の話であり、それがどのような人間かと問われれば1960年代における民主化と自由を求め抵抗してきた若者、ヒッピーとなり伝統・制度などの既成の価値観に縛られた人間生活を否定した若者、といったビートニクやヌーヴェルヴァーグなどが描いてきたストーリーのない作品に規定を逸脱する楽しさを覚え、現実には無いフィクションだけの理想郷を思い描いていた人間たちの事であり、現代であるならば音楽、映画、小説に触れて、ひとときの間、社会を忘れて自由へと解放される我々の事でもあり、『(冬の)路上』はそのような“社会とか現実から切り離された人間”を描くことで、現実を逃避して、ひとときの享楽に身をゆだねる我々を肯定するためにあるのではなかろうか、というのが私の結論ではあるのだが、それにしても、生きるというのは誰かが終わらせない限りは続いていくようなものであり、それはケルアックの『路上』だと長く続く路上(ロード)を走る車のようでもあり、あるいは、句点(終わり)なく一続きで語られるこんな文章のようなものでもある。(マーガレット安井)
注釈
[1]インタビュー:静的でありながら“不穏の予感”それでいて“快楽そのもの” ギリシャラブ・天川悠雅が目指す、理想の音楽 – CDJournal CDJ PUSH
[2]ギリシャラブが志磨遼平(ドレスコーズ)が監修を務めるレーベルJESUS RECORDSより新作EP『(冬の)路上』をリリース | スペシャル | EMTG MUSIC